《君の掌の熱》
ふわりふわりと体が揺れる。
けれどその体そのものは無く、ただ揺れている感覚だけ。
そして視界だけがはっきりとこの世界を映している。
そんな矛盾に、これが夢であることを頭の隅で意識する。
おぼろげに映る世界。
その中にいる小さな男の子。
その子は息を弾ませ、ひとりの老人に近付く。
「おじいちゃん」
言葉は耳からではなく、直接頭の中で響いた。
「おじいちゃん、ぼくね――」
「けんじ」
遮られた声色に、男の子はピタリと止まる。
「向こうで遊んできなさい」
言い終わらない内に、老人は既に立ち上がり、『けんじ』に背を向けていた。
その老人の背中を眺めながら小さく、はい、と呟く声が無性に哀しかった。
「――さん」
―――…。
「健二さん」
自分を呼ぶ知らない声に、うっすらと瞼を上げる。
青空を背景に覗き込んでくる少年には、見覚えがあった。
――だれ、と開きかけた口からは小さく息が漏れた。
この少年を自分は知っている。
真っ直ぐに見つめる視線と、瞳と同じ真っ黒な髪に、日に焼けた褐色の肌。
夢の中の男の子とは全く違う外見の少年。
そう、この子は―――。
「………――っ!うわ!か、佳主馬くんっ」
勢いよく起き上がる健二の頭をひょいとかわし、叫ばなくても聞える、と呟く少年は、この上田の――陣内家の親族。
「び、びっくりした…」
「びっくりしたのはこっち。それより、今寝惚けてたでしょ」
驚いた様子など何一つ見せずに見下ろす四つ下の少年に、健二は力なく笑い、頷いた。
「夢でも見てた?」
「うん、まぁ…あ、何か用事だった?」
「…べつに。廊下の真ん中で暑くないのかなって」
言いながら佳主馬は健二の隣に腰を下ろす。そして自分と同じように縁側の外に足だけを投げ出した。
「でも風が気持ちいいから…」
するとそれに応えるように、前髪をさらりと風が撫でていく。
しばらくの間、お互い口を閉じたままだったが、前を向いていた佳主馬が呟いた。
「…どんな夢」
え、と視線を移すと、日に焼けた横顔の少年の髪を柔らかい風が揺らした。
ふと、しょんぼりと立っていた小さな男の子を思い出し、胸がしくりと痛んだ。
片膝を抱えるように動いた佳主馬を見つめていると、なに、と訝しげに聞かれる。
「あ…えっと…何だっけ?」
「まだ寝惚けてるの?」
呆れた顔で見上げてくる少年に何とも言えず、頭を掻く。考えてみればこの表情を一番多く見ているような気がする。
「…健二さんが見てた夢…。べつに言いたくなければいい」
「――あ、夢だったね、うん、あ、べつに大したことじゃないんだけど…」
語尾を小さくさせながら、もしかして寝言いってた?と聞くと、首を振られ安堵する。
「…ただ――」
「えっ」
思わず出た声に、佳主馬は、しまった、と言う顔で視線を逸らす。その仕草が余計不安で健二はうろたえる。
「え、な、何。僕何かしてた…?」
「…………」
「佳主馬くんっ」
「…寝てたけど」
「いや、そうじゃなくてっ」
気になる、と思わずその褐色の腕に触れると、一瞬身を引いたような気がしたが、特に振り払われることもなく勘違いだろうと頭の隅で思う。
「ただ――」
諦めたように言葉を紡ぐ佳主馬に安堵し、触れていた手をそっと離す。
「ただ…何となく…泣きそうだったから…」
「―――あぁ…」
納得し、漏れた声に少年は気まずそうに視線を落とした。
再び訪れた沈黙に、今度は健二から口を開く。
「祖父の…夢を見てたんだ…」
佳主馬の視線が自分へ向いたことを感じながら、健二は続ける。
「僕の祖父はね、とても無口な人で…僕にも無関心で…。この家みたいに笑ってご飯食べたり、遊んでもらったり…そうゆうの一度もなかったんだ」
そして小さく苦笑する。
この陣内家ではきっと考えられない関係だろう。
けれど、どちらが正しいとか間違っていると言う概念はきっと無い。
祖父が悪いわけでも、健二が悪いわけでもないだろう。
人の数だけその関わりがあり、家族の形がある。そして、自分が求める理想も。
だから祖父との関係を寂しいと思ったあの頃の自分は、手を伸ばそうとした。
今まで当たり前だと思っていた関係が人と違うと理解したとき、強く自覚した寂しさ。
クラスメイトが話す思い出話は、とても楽しそうで温かい。自分には経験のない知らなかった世界。それを求めて伸ばした小さな手。
「…祖父は、僕が中学の頃亡くなったけどね…」
膝にある自分の白い手を眺める。
あの小さな手は、成長してもどこか頼りなく思うのは気のせいではないだろう。
手を伸ばすことを恐れ、拒まれることを恐れ、中途半端に宙にある。その先に求める人は、もういないのに。
「不思議だな…。ここで祖父の夢をみるなんて…一度もなかったのに…」
栄おばあちゃんの影響かな、と呟くと、きっとそうだよ、と短い返事が聞えた。
何の違和感も感じないその声を、健二は不思議に思う。
あらわし事件の影響で、急速に近付いた陣内家との距離。隣に座る少年には、不思議と安心感まで覚えるほどになっていた。
今は気兼ねなく話せる親友の佐久間でも、ここまで打ち解けるにはしばらく時間を費やしたことを覚えている。
前を見据える四つ下の少年は、中学一年とは思えないほど大人びていて落ち着いている。そんな子供らしからぬ雰囲気が逆に自分を安心させているのだろうか。
多くは語らない、けれど自分の言葉をきちんと聞いていて、理解している。合いの手が少なくとも言葉を受け止めてくれることがわかっているから、こちらは自然と話してしまう。
だから、佳主馬との会話はとても心地よい。
友人とは違う安心感。
もしかして自分は甘えているのだろうかと考えていたところに、佳主馬が小さく、僕は、と口を開いた。
「僕は、健二さんと切れたくない。繋がっていたい、この先も」
静かでしっかりとした声。
一拍遅れて、健二はその意味を理解する。
瞬きをするのも忘れて、まじまじと年下の少年を見つめた。
「聞いてるの?何か言ってよ」
その声で我に返ると眉を寄せる佳主馬に体を向け、慌てて答える。
「ぼっ、僕も!」
異常に大きく出た声に、だから叫ばなくても聞える、と佳主馬は苦笑した。
年下の少年に笑われていることを恥かしいと思うが、それ以上にこの心地よい空間が優しくて嬉しくて、健二はへらりと笑った。
自分との関わりをなくしたくないと口にした佳主馬に、熱いものが込み上がる。
その言葉は、聞いたことも言われたこともない。ましてや自分から口にしたことなど一度もない。
そう言うものは、言わずともわかるものだと思っていたし、、実際口にするとなれば、照れが邪魔して上手く言えないだろう。
しかしそれを言ってのける佳主馬を心から格好いいと思う。もちろん、元々この大人びた少年は何を取っても様になり、格好いいのだが。こんな風に素直に自分の気持ちを言えることこそ、本当の格好よさなのかもしれない。
「…だから、これからも、ここに来てよ」
先程より小さくなった声。けれどそれは、すとんと自分の中に落ちて、じんわりと染み渡る。
柔らかい風がまた健二の髪を撫で、目の前の黒い髪も揺らした。
不意に、祖父の背中が脳裏を過る。
家族なのにとても遠かった背中。
他人の自分を受け入れてくれた陣内家。
祖父も両親も、いつも手を伸ばす先にいるような気がする。
振り向いてもらえることを待つように。
手を伸ばし、声を出し、自分がここにいることを知ってもらうように。
しかしここは違う。陣内家の人々はむしろ健二の後ろにいる。
名を呼ばれ、声を掛けられ、時には傍に来てごつかれ撫でられる。そして大きな声で笑うのだ。
楽しくて、嬉しくて温かくて―――それが少し切ない。
遠い背中が視界に入る度、切なくなる。
この場所に居たいと思えば思うほど、苦しくなる。
それが罪悪感からなのか、寂しさからなのかはわからない。
中途半端に伸ばされた手が下りられないのは、きっとそのせい。
そんなぼんやりとした思考を戻したのは、熱い掌だった。
え、と思った時には、自分の手の上に置かれた佳主馬の手にぐいと引っ張られていた。
目の高さには白い手を掴む褐色の左手。
その手の向こうにある、揺るぎなく真っ直ぐに見つめてくる視線とぶつかる。
どきりとした。その強い眼差しに。
「健二さん」
佳主馬の右手が動き、掴まれている手の小指に同じようにその指を絡めた。
その白と黒のコントラストが妙に色っぽくて、再び胸が高鳴る。
「アドレス教える」
熱い掌。
「OZで会おうよ」
熱い小指。
「数学、教えてほしいし」
そこから伝わる熱が伝染したように、健二自身を熱くさせる。
「約束」
―――あ。
その瞬間、理解する。
小さな男の子、遠い背中、笑顔の陣内家、栄の最後の笑い声、そして――手から伝わる熱。
―――あぁ、そうか。
佳主馬の左手が離され、絡められた小指も解かれる。けれどその熱を失いたくなくて、健二は褐色の右手を両手で閉じ込めた。
ピクリと反応する佳主馬を気にもとめず、その手の熱を感じながら俯く。
これは―――後悔。
「…祖父が…亡くなったとき…僕ね、何も…感じなかったんだ」
何を言っているんだろうと、自分で思う。感傷的になっていることもわかっている。
いきなり語られる祖父の話は、佳主馬にとって迷惑に違いない。それでも聞いてくれるとわかっているから、やはり自分はこの少年に甘えているのだろう。
掌から伝わる熱に勇気をもらいながら、健二は口を開く。
言いたい。聞いてほしい。この気持ちを。この少年に――。
「納得しただけ。あぁ、そうなんだ、って。それだけだった…」
ゆっくりと腕を下ろすと、視界に入った両手を見つめる。
「葬式のときも、そうだった…。実感がなかったわけじゃない。それでも、他人事のように、僕は、そこにいたんだ…家族なのに…」
哀しかったわけではない。寂しかったわけでもない。
ただ、仕方ないという、諦めの感情。
「でも、ここに来て…短い時間だったけど、栄おばあちゃんには…寂しい、って…思ったんだ」
あの凛とした声が聞けないと思うと。温かい笑顔が見れないと思うと。
それは自分の祖父にはなかった感情。
「それに…葬式が、こんなに温かいものだとは、思わなかった…」
死を悲しみ、憐れむのではなく、それを超えた死者に対する感謝の気持ち。
ありがとう、と笑顔で見送る、そんな葬式。
温かくて、優しくて、ちょっぴり切ない。これが本来の『見送り方』なのかもしれないと、あの時自分は思ったのだ。
「おかしいよね…僕は、そんなこと、祖父には…思わなか…っ」
震える声を噛み締める。
佳主馬は何も言わず、ただ黙って聞いている。
振り払われずに両手に納まる褐色の手の熱が、健二を安堵させる。
「…僕は、薄情な人間なんだろうね…」
漏れた言葉に、初めて返事が返ってくる。
「なら、世の中の人間はみんな非道だね」
「…え?」
顔を上げ、真っ黒な瞳を視界に入れる。
「もちろん、僕も」
「……何いってるの、佳主馬くん」
「健二さんこそ何言ってんの」
それから少年は健二が見慣れた呆れ顔をした。
「その前に、本当に薄情なヤツはそんなこといちいち考えないよ」
「…………」
言葉に詰まる健二に、佳主馬は小さく息を付く。
「後悔してるんだ、健二さん」
でもさ、と佳主馬は健二に手を握られたまま前を向く。
「…後悔するのって、悪いことじゃないよ」
――――――。
褐色に焼けた横顔を見つめる。
やけに眩しくて目を細めると、ぽろりと頬を何かが伝う。
それが自分の涙であることに驚きつつも、止めたいとは思わなかった。
ぽろぽろと止処なく零れる涙に、佳主馬もきっと気付いているのだろうが、ただ真っ直ぐに前を見ていた。
包んでいる手の体温が優しくて、とても優しくて、その熱を感じながらゆっくりと瞼を閉じた。
祖父は幸せだっただろうか。
自分は何かしら残してやれたのだろうか。
それをもう、聞く術はない。
そのことが『死』なのかもしれない。
涙がまたひとつ頬を伝った。
今、健二は初めて心から、祖父の死を哀しみ、想い、涙していた。
その内なる想いに区切りをつけるように、ゆっくりと瞼を上げる。自然と顔が綻ぶ。
「佳主馬くん」
ゆっくりと少年がこちらに視線を向ける。
「ありがとう」
自分を気遣ってくれるこの少年の優しさに、心からの感謝を込めて伝える。
伝えられることを幸せに感じながら。
健二の顔を呆然と見つめていた佳主馬は、急に視線を泳がせるが、再び視線を合わせると小さく笑う。そして再び視線を逸らした。
そんな少年に愛しさが込み上がり、健二は笑みを深めた。
風に乗って風鈴の音が聞える。
優しい風がまたひとつ、健二の頬を撫でていく。
その心地よさに、再びゆっくりと瞼を閉じようとしたとき、間の抜けた声が降りて来た。
「何が『ありがとう』なの?」
その声に、ビクリと肩を震わせた健二の隣で、佳主馬が勢いよく振り向いた。
「え?え?」
健二と佳主馬を見比べた太助の視線が、ゆっくりと下がる。
その瞬間、佳主馬が勢いよく立ち上がったことで、手の中の熱がなくなった。そこで今まで自分が佳主馬の手を握り締めたままであったことに気付くと、健二はうっすらと頬を染め、誤魔化すように乾いた笑いを太助に向けた。
「…何、太助おじさん」
不機嫌な色を含ませた佳主馬が太助を見上げる。しかしそんな声色を気にも留めず、太助はのんびりと答えた。
「え?あ、二人ともアイスでも――」
「後で食べる」
ピシャリと太助の言葉を切った佳主馬は、行こう、と健二に視線を向ける。
「へ?」
太助にも負けない間の抜けた声に、一瞬佳主馬は顔をしかめた後、健二の手を引っ張る。
あ、わ、と言う声を出しながら、引かれるままに立ち上がった健二は佳主馬の後を付いて行く。
振り向いて太助に頭を下げると、ぽかんとした表情でヒラヒラと手を振る姿があった。
「…気に入られちゃったねぇ…」
そんな二人の後姿に漏れた太助の呟きは、当人たちには届くことなく、ふわりと吹いた風に消えていった。
「佳主馬くん、どこ行くの?」
ずんずんと前を歩く少年の後姿を眺めながら、手を引かれるままに付いて行く。
ちらりと視線を寄こした佳主馬は再び前を向く。少し歩調を緩めた後、アドレス交換、と返ってきた。
健二は瞬きをした後、ゆっくりと微笑む。
「約束だね」
返事のない代わりに、手を握る強さが少し増す。その手に視線を下ろし、自分よりも一回り小さい褐色の手が白い手をしっかりと掴んでいるのを見つめた。
先程と同じ熱に、何故だか涙が出そうになった。
視線を前に戻し、佳主馬の姿を視界に入れると、自然と笑顔になる。
揺れる黒髪。
褐色の肌。
まだ小さくも、頼もしい背中。
そして、自分の手を引く力強さと掌の熱さ。
何もかもが、自分を満たしていく。
―――放したくない。
胸に芽生えた感情に気付かぬまま、ただその熱い手を健二はしっかりと握り返した。
END
長い…前回よりは。
途中、何を書いてるんだかわかんなくなったのが正直なところです。
そして健二さん、どんだけおじいちゃんに執着してるんだ、って書きながら思った。
この場合は両親の方なんじゃ…と思いつつ、栄おばあちゃんと比較するために 祖父登場にしました。
あと、佳主馬くんのちょっとした仕草とか書いててニヤケてました。さり気ない好意。しかし手は握っているという。
太助さんはいいキャラです。出したかった。
佳主馬くんにとっても話せる親族の内に入っているのであろう。